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- 蜂の子:毎年の如く、ジバチの巣をいただいた。何段にもなっている相当の代物である。私の仕事は、ピンセットを片手に、蜂の巣の表面の薄い灰色の皮を破り、中にいる蜂の幼虫をつまみ出す事であった。薄黄色のきれいなもの、少し灰色がかっているもの、中には、既に蜂の姿に変わって黒くなりちじこまっているものもある。殻を破るとごそごそと動き出すものもあるので、首をひねって殺す。母が砂糖醤油で甘辛く煮付けたものは、相当の美味しさであった。中学時代の弁当の片隅に入っており、非常に弁当にマッチしていた。私は、さすがに生のままで食べた事はない。蜂の子の煮付が缶詰めの形で売られているのを、上諏訪のお土産店で見た事がある。
- イナゴ:秋になるとイナゴの醤油煮が食卓の上にあった。それも大きなどんぶり状の器に山盛りに出されていた。これは、カリカリした食感の美味であって、目をつむって食べればイナゴという感覚はない。ただ、じっくりと面を眺めると、あまり良い感じではない。長い足がついている事が気になり始めると、気になってしまうだろう。
- ざざむし:これは天竜川でとれるものだそうで、げじげじのように細長くなっていたようであるが、ほとんど記憶にない。美味であったという記憶も残っていない。食べた事は確かだと思われる。
- ぶり:何年か続けてぶりが丸一匹年末になると送られてきた。家ではおろせないので、近所の魚屋さんに頼んでおろしてもらう。その日からぶり三昧であった。刺し身、煮付、椀物。そしてアラを味噌仕立した汁。
- まつたけ:秋になるとカゴ一杯のまつたけが岡山から送られてきた。色々な食べ方をしたが、大きいまま、網で焼いて醤油をつけて食べた記憶が残る。子供にとっては美味というよりは、臭みと味が強烈であり、後年の美味という感じはなかった。もったいない事であった。昭和30年代の初めである。
- クルミ餅:お餅は色々な食べ方があったが、祭りなど何かおめでたい事があると、母はクルミ餅を作った。そのコクのある美味しさは格別であった。最近、インターネットでクルミ餅と検索してみて、私の幼少時の記憶とは違うクルミ餅の形態が主流である事を知った。ところが、たまたま村井弦齋の『食道楽の献立』を読んでいると、まさに私の記憶に残るクルミ餅のレシピーらしきものが書かれているではないか。この本は二十世紀の初頭にかかれている記事をまとめたものなので、大正7年生まれの母は幼少時からなじんでいたのであろう。
- すぐり:夏の初めにすぐりを食べる。半透明な薄黄緑色の丸い小さな実で、歯触りがよく、その酸味はすさまじいものであった。酸っぱいものが好物の私は好んで食べたが、通常は、その翌日あたりにトイレに急行するはめになった。
- 夏みかん:昔の夏みかんの酸味も相当のものであったと記憶している。塩か重曹をつけて食べた。大きさも相当あり、外見もごつく、皮も厚かった。
- 干し柿:ある程度の温暖さがない地域では、本来甘柿が実をつけるはずの木に、渋柿が出来てしまうようだ。我が家の庭には、渋柿と富有柿の甘くならないものが秋になると相当数の実をつけた。そのうちの半分以上は、皮をむいて、お蔵の二階の軒先に麻糸でぶらさげて干し柿にする。晴れた日に屋根にのぼり、両手でもみもみするのは、子供達の仕事であった。ハエがブンブンまわりを飛んでいるのが気になったものだが、白い粉が吹いてきれいになった最終的な干し柿からは、想像も出来ない。最近、スーパーできれいな干し柿を良く見るが、その都度、我が家の軒先の様子を思い出してしまう。干し柿をみりんと砂糖でつけたものは、相当のお菓子と言ってよいだろう。
- さわし柿:残りの柿の大部分はさわして食べる。柿の渋味を適当なアルコール分と温度で甘味に変えるのである。アルコールとしては、大昔は焼酎を使っていた可能性があるが、しばらくするとエチルアルコールを使うようになった。ビニールの袋に入れて、温泉が常に補充されているお風呂につけておくか、あるいは、(炭の)炬燵に入れていた。さわした柿は、アルコール分が独特の味として残っており、いわゆる甘柿の美味しさとは別の美味しさと思う。
- りんご:親戚に広いりんご園があり、秋になると木箱にはいったりんごが送られてきた。紅玉、国光、インド、デリシャスなど。後年、青森産の極上のりんごを食す機会も出来たが、幼少時のりんごは、それらに匹敵する品と感じた。毎日、丸ごとかじっていた。梨は、二十世紀と洋梨が送られてきた。大きくなってから、伯父が果樹栽培に研究熱心だった事を知り、運が良かったとしか言いようがない。
- かりん漬け:これは、スライスした果林を焼酎と砂糖で漬けたものだと思われる。薄黄色のきれいな事、独特の歯触り、上品な甘味など、お茶受けのご馳走であった。茶色に変色しないようにする事がひとつの技術であった。
- 大学に入るため東京に出てから、野沢菜漬けという呼び名を知った。あれは、普通にはお葉漬けと呼ばれているものであり、秋の適当な週を選んで、お葉洗いと樽に漬ける作業が庭の炊事場で毎年行われた。家ごとに微妙なかくし味が違っていて、それぞれの味がするものである。我が家では、一冬を越えるに充分な量が樽に仕込まれ、味噌倉にしまわれた。味噌倉には、その他の漬物類も並んでおり(梅ぼし、うり、たくあん、普通の野菜類等)、独特のかび臭い臭いがした。私は入る前に、外で大きく息をして、なるべく中で呼吸をしないように努力したものだ。お葉漬けは、味、色、感触が大事である。葉の部分は、箸で広げて、海苔のようにご飯をはさんで食べたものである。
- 焼き味噌:お皿に味噌を薄く塗り、それを金網の上で裏返して、焦げ目が少しつく程度に焼く。白い御飯に添えて食べる。焼く前にジャコや刻みねぎを入れてもよい。香ばしい。
- 納豆:早朝、ナット、ナットウーという声がして、自転車の後ろに木箱を積んで、納豆売りが回ってくる。黄色のカラシは、三角形の木の皮を少し開いて、そこにこちらの要求する分量をへらで別途塗り付けてくれる。納豆は朝食にしばしば添えられた。
- 水飴:透明な大きめなガラス容器の底に水飴があり、それをお箸の先にグルグル巻きに巻き取って舐めたのは、幼稚園時代ではなかろうか。甘酒を布で漉し、その液を煮詰めれば水飴となる。
- とおじる:昔、電子レンジがない時代に、冷飯を湯漬けにする場合、「とおじてから」湯漬けにしましょうという言い方をした。これは、椀に盛った冷飯に熱い湯をサッとかけ、椀を傾けて箸で米が漏れないように湯を捨てて、前以て温める事を意味している。現在でも「湯に通す」という言い方をするが、それが多少訛っているのであろうか。「とおじる」とは懐かしい響きを持つ言葉である。湯漬けの中身は、漬物が主であったと記憶しているが、小倉屋の塩昆布はその当時の我が家の食卓にあったと思う。今でも小倉屋はヒイキである。
- 昔は、牛乳とヨーグルトはガラスビン詰めで、毎朝、家に配達してくれたものだ。共に厚紙のフタがされており、スプーンの柄を刺してはずしたりした。先端に鋭いピンがついた専用の蓋取り器もあった。爪で紙の縁を削りあげ、つまみ上げる事もあった。なかなか取れないので癇癪を起こして指でフタを押し下げたりすると、中の牛乳がはねちって悲惨な結果になる事もあった。背の低い広口ビンに入っていたヨーグルトは、固くで酸味が強いものであった。牛乳1本とヨーグルト1本が毎日の私の取り分であった。ヤクルトに似たような飲み物を配達してもらった事もあるが、名前を忘れた。私の生まれた地方ではヤクルトは後発組と思う。牛乳屋さんという商売があり、その当時は、狭いその地域だけを受け持つ商いをしていたように記憶する。なにしろ、広域の速い流通も冷蔵技術もまだ発達以前の環境であった。段ボール箱の利用はまだ始まっていなかった。信州味噌は、竹の大樽に詰められ、国鉄の貨車に積まれて、東京、関西に出荷されていた時代だ。桶屋さんという商売が繁盛していた。そういえば、我家に配られてくる温泉を、ストックする容器は、大きな樽であった。
- ムシ:昔、家に居た犬と遊ぶ時、御褒美に「ムシ」をあげた。これは犬の大好物で、ムシャムシャと元気よく食べた。大学へ入る為に、東京に出てから、この言葉が他の人には通じない事を知った。普通には「煮干し」と呼ばれるのである。特に辞典にあたる事もなく、何故、私の故郷の諏訪では「ムシ」と呼ぶのかと疑問を持ち続けていたが、2007年3月に放送された「食彩」の中での解説により、長年の疑問が氷解した。それによれば、遠州あたりから運ばれてくる煮干しは「蒸して」作ると、諏訪の人々が勘違いした事が語源であるという。そうか、勘違いだったのか。
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Kozan
平成28年2月8日